2016年7月7日木曜日

横浜はじめて物語




横浜には数多くの観光スポットがあります。洋館あり、元町ありで楽しめるのですが一寸アングルを変えた横浜の楽しみ方のご提案です。外国人が居留した歴史 と関連するからだと思いますが、横浜から始まった多くの生活習慣があります。その場所やエピソードも含めオリジンストーリーをご紹介してみたいと思いま す。横浜散歩がまた楽しくなります。

日本初のビール蒸留所 (麒麟麦酒開源記念碑)

概要:1869年(明治2年)、山手居留地46番にて、ローゼンフェルが開業しました。居留地の外国人向けに、日本初のビール醸造所「ジャパン・ヨ コハマ・ブルワリー」が開始し、5年程操業しました。1870年(明治3年)には、横浜・山手の外国人居留地123番にウィリアム・コープランが、ビール 醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」、コープランドの醸造所の敷地では、コープランドの廃業後もビール醸造が継続され、麒麟麦酒株式会社へとつなが り、コープランドは自身の持つビール醸造の知識と技術をより多くの日本人へ積極的に伝授しました。コープランドの特徴は、なかなか商売上手なところでし た。よさそうなところへ出資し、経営参加をして、お金をつくっては、自分の商売も考える。日本人のビール工場がチラホラとできつつあった頃には、ビール醸 造用品を販売していました。ビールの熟成に適したよい地下もありました。今でも「ビール井戸」が横浜市北方小学校に残されています。この地が、キリンビー ルの発祥の地であることを記念して、1937年(昭和12年) 、キリン公園に「麒麟麦酒開源記念碑(日本の麦酒発祥の地)」が建っています
確認地:〒231-0863  神奈川県横浜市中区諏訪町29(北方小学校わき)
お問い合わせ :アメリカ山公園運営管理事務所(8:30~17:30、土日祭休)
TEL 045-232-4661

URL:http://takatust.town-web.net/yoko-hatsu/page009.html


アイスクリーム発祥の地

概要:日本人とアイスクリームの出会いは江戸末期のこと。幕府が派遣した使節団が訪問先のアメリカで食べたのが最初で、そのおいしさに驚嘆したと言 われています。1865(慶応元)年、リズレーが居留地にアイスクリーム屋を開いたと言われていますが、1869(明治2)年町田房造が日本人としてはじ めて氷水屋を開業し「あいすくりん」と名付けて売り出したと言われています。現在の馬車道で売り出されたのが始まりで「太陽の母子像」があります。
確認地:馬車道「太陽の母子像」
住所:〒231-0014  神奈川県横浜市中区常盤町・馬車道

URL:https://www.icecream.or.jp/ice/history/japan01.html

 

テニス発祥の地

概要:明治7年にイギリスで始まったローンテニスが、明治9年に横浜に伝わり、山手公園の中にテニスコートが2面つくられ、ここからテニスが全国に 広まりました。テニスの発祥の地を記念して建てられたのが「横浜・山手 テニス発祥記念館」です。テニスウェアやラケットの変遷など、テニスの歴史が展示 公開されています。
確認地:山手テニス発祥記念館
住所:〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町230
電話:045-681-8646

URL:http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/yamate/

初の西洋公園の開園

概要:山手町の フェリス女子学園大学の南に接して 山手公園があります。 公園のほぼ中央, 「テニス発祥記念館」の近くに「山手公園120周 年」の記念碑があり, その横に「日本最初の洋式公園」の碑が建っています。そもそも山手町一帯は, 横浜の開港にともなって外国人が居住するための居留 地がおかれた地域です。山手公園は居留する外国人が日本政府から土地を借りて自らの資金で開設した“外国人専用”の公園で, 1871(明治4)年に開園 しました。その後 経済的な理由で居留民が公園を維持できなくなり,日本政府に返還されました。 同時期に創設されたテニスクラブ(レディズ・ローンテニ ス & クロッケー・クラブ)が公園の管理をする代わりに公園の 1/4 をテニスコートとして利用することが許可されました。戦後, 公園 は 米軍に接収されましたが, 1952(昭和27)年に返還されました。
確認地:「日本最初の洋式公園」の碑
住所:神奈川県横浜市中区山手町

URL:http://hamadayori.com/hass-col/culture/YamateKoen.htm

日本初のすき焼き店

概要:横浜市内には現在、明治創業の牛鍋の老舗が3軒あります。いずれも中区に位置し、店名は「じゃのめや」、「荒井屋」、「太田なわのれん」。と ころで、すき焼きの前身の「鋤焼き」に関する記述は、江戸時代の料理書にはいくつか見られます。享和元(1801)年にあらわされた「料理早指南」という 本には、鋤焼きが「農具の鋤を熱し、その上で肉を焼く料理」として簡単に紹介されているそうです。文化元(1804)年の「料理談合集」、文政 12(1829)年の「鯨肉調味方」にも具体的な記述が見られるそうです。ただし、肉は鴨の肉とか鯨肉とかが使われています。牛肉と書くと発禁にされたの でしょうか。最初の牛鍋屋は「横浜の伊勢熊」だそうです。安政6(1859)年の横浜開港以降、外人の牛肉需要が増え、日本人も親しむようになったらしい です。第一号としては文久2(1862)年、横浜入船町にあった居酒屋「伊勢熊」が牛鍋屋を開業したことになっています。別の説もあり、幕末に京都三条河 原町に日本最初のすき焼き屋が開店したとも言われています。
確認地:「荒井屋 みなと横濱 曙町 牛鍋処」
住所:神奈川県横浜市中区曙町2-17
電話:045-251-5001

URL:http://www.araiya.co.jp/


 

鉄道路線開通

概要:1872(明治5)年、イギリス人技師モレルの尽力で横浜-新橋間に日本最初の鉄道が開通。当時の横浜駅は今の桜木町駅あたりにありました。 駅長室跡を記す銘板が地下道入口壁面にあります。碑文にはこうあります・・・、「我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、この場所にあった 横浜ステイションと品川ステイションの間で開通し、その営業を開始しました。私どもは、当時の人の気概と努力とをたたえ、このことを後世に伝えるととも に、この伝統が受け継がれて、さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。」
確認地:鉄道発祥記念碑
住所:〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町1丁目

URL:http://hazukimap.sakura.ne.jp/guide/14k/yokohama/naka/

 

初の電話交換業務

概要:1876年(明治9年)にスコットランド生まれのA.G.ベルが電話機を発明し、その翌年11月には工部省がベル電話会社の日本の代理店バ ヴィエル商会を通して電話を購入し、電信線を利用し横浜の電信分局と本省の間で通話実験に成功しました。12月には工部省と宮内省の間に設置されたのが電 話機実用の最初です。横浜では、神奈川県警察本署と堺町警察署との間に設置されたのが最初とされています。その後、電話事業を官営にするか民営にするかに 議論が分かれましたが逓信省の管轄のもと官営で実施することが決まりました。同年の年始早々には、遠距離通話試験と電話知識普及のために東京・熱海間の公 衆電話取り扱いが開始されています。これより先、電話という通信手段は加速度を増して、その普及範囲を全国へと広めて行ったのです。また、電話交換局内に も公衆電話が取り付けられており、その事を記した、電話交換創始の地碑が横浜に存在します。
確認地:「電話交換創始之地」の碑
住所:神奈川県横浜市中区日本大通(“大桟橋通り”と“本町通り”の交差点, 横浜港郵便局に向かって 右側のビル)

URL:http://hamadayori.com/hass-col/comm/denwakokan.htm


写真館第一号

概要:幕末の1859年に横浜港が開港し、その翌年1860年に写真というものが上陸しました。ボストン出身のアメリカ人O.E.フリーマン (Orrin Erastus Freeman)が横浜に初の写真館を開いたのです。その後、初の日本人写真師とされる下岡蓮杖(しもおか れんじょう) は、1862年に横浜に写真館を開業しました。彼は1823年(文政6年)伊豆下田生まれ。当初は絵師を志して江戸に出てきましたが、そこで外国から入っ てきたばかりの写真というものを見て興味を持ち、写真術の習得を目指します。彼は横浜で出会ったアメリカ人の写真家ジョン・ウィルソンからカメラやスタジ オを譲り受け、写真館を開業するが失敗。 当時の日本人は写真を撮影すると「寿命が縮まる」としてこれを嫌い、写真というものに馴染めなかったのです。そ のような理由から、客はいずれも外国人が主でした。 やがて時代とともに迷信は消え、彼も苦労の末に弁天通りに再出店します。 その後一旦故郷の下田へ帰 りますが、再び横浜に出て、馬車道太田町角にも店を構え、店舗は次第に栄えていきました。馬車道にはその歴史を伝える「下岡蓮杖顕彰碑」があります。
確認地:馬車道「下岡蓮杖顕彰碑」
住所:JR京浜東北線関内駅北口馬車道通り沿いにある、向かいは日本興亜損保ビル

URL:http://www.timeslip-y.jp/kannai/photo.html

 

理髪店第一号

概要:横浜の 山下公園の西隅に, 白い円柱状の彫刻が建っています。近づいてみると それは 頭髪をセンター分けにした男の頭をかたどったもので ある事が判ります。この彫刻の下に“ザンギリ頭をたたいてみれば・・・” という説明文がついています。その後 山下公園の改修工事により, この碑 は 山下公園のほぼ中央に 場所を移されました。
確認地:「西洋理髪発祥の地」の碑
住所:神奈川県横浜市中区山下町

URL:http://hamadayori.com/hass-col/culture/seiyo-rihatu.htm

 

日本初の銀行開業

概要:日本で一番最初の銀行は明治6年創立の「第一国立銀行」とされ,日本橋に発祥の地のプレートが飾られていますが,これは「日本の資本による銀 行」の意味です。海外資本による銀行はこの「香港上海銀行」で1866年(慶応2年)のことになります。英国系金融機関HSBCグループの香港上海銀行 は, 創業2年目の1866年(慶応2年) 居留地62番に日本で初の支店となる横浜支店を開設しました。その後, 居留地2番(現山下町2番地)に移転 した横浜支店は貿易金融業務の提供に留まらず, 日本政府に対して銀行業や通貨制度に関する助言も行いました。香港上海銀行は現在日本で営業を行っている 最も古い銀行です。
確認地:銀行業務発祥の地 碑
住所:神奈川県横浜市中区山下町

URL:http://hamadayori.com/hass-col/commerce/GinkoGyomu.htm

日本初のホテル

概要:横浜で初めて建てられたホテルは1860年(安政7年)の2月24日に現在の山下町70番地(住友海上・上野共同ビル)の場所で開業しまし た。経営者は、オランダ船籍ナッソウ号元船長のC.J.フフナーゲルでした。また、ホテル内にはバーがあり、日本初の洋式バーであるとも言われています。 建物は立派ではなかったようですがこのホテルにはシーボルト父子や、画家のW.ハイネなども滞在しています。だが、1863年(文久3年)に、一旦閉鎖 し、1864年(文久4年)に新装開店したが、1866年(慶応2年)に大火で焼失してしまいました。1862年(文久2年)にヨコハマホテルのバーで働 いていたイギリス人のマコーリー男爵が居留地86番(横浜海員会館付近)に「ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル」を開業しました。このホテルでは、ヨコハ マホテルでのバーを活用したのかコーヒールームやボーリング場まで設備されていました。
確認地:「ホテル発祥の地」の記念碑(プレート)
住所:神奈川県横浜市中区山下町

URL:http://hamadayori.com/hass-col/culture/hotel.htm


日本のラグビー始まる

概要:日本への伝来は, 横浜生れの英国人 E.B.クラーク氏が ケンブリッジ大学に留学し, 同時に留学していた 田中銀之助氏とともに 日本 に持ち帰り, 慶応大学の学生に教えたのが始まりと言われています。東横線 日吉駅から 約800m西に, 慶応義塾大学の総合グラウンドがありますが、 その最も南東寄りにラグビー場があって, 北隅に コンクリートの短い電柱のような 発祥碑が建っています。
確認地:ラグビー発祥の碑
住所:神奈川県横浜市港北区下田町1丁目

URL:http://hamadayori.com/hass-col/sports/rugby.htm

 

日本のパン屋第一号

概要:日本で始めてパンの製造を始めた日本人は、フランス軍艦ドルドーニュ号乗り組みのコックから手ほどきを受け、日本の小麦粉で「ゆでだんご」の ようなパンを焼いたと言われています。1860年、「お貸長屋」(現在の横浜開港資料館の辺り)で、「パンのような」「焼饅頭のようなもの」を焼き、「和 風パン屋」として開業しました。その日本人が内海兵吉であると言われています。 1861年(文久元年)に開業しますが、11月グッドマンの家が全焼し、 翌年2月に「横浜最初のヨーロッパ風パン屋」を新規開店。1864年、グッドマンは病気のため一時日本を離れるので、その間、ロバートクラークに任せてい ます。グッドマンは1865年に再び来日し、営業を再開しています。1865年(慶応元年)8月、ロバートクラークは横浜で「横浜ベイカリー」を開き、以 後35年間パンを焼き続けました。その後、「横浜ベイカリー」は色々な説がありますが、1875年(明治8年)に打木彦太郎が継承しました。この店はその 後、宇千喜麺麭製作所と称します。そのパン屋が元町にあり、今も営業している有名な「ヨコハマベーカリーウチキ商店」です。
確認地:「ヨコハマベーカリーウチキ商店」
住所:神奈川県横浜市中区元町1-50

URL:http://www.uchikipan.com/


日本にクリーニング店出現

概要:記録によると一番最初の業者は青木屋忠七で、明治中期には83名の業者名が記録されています。脇沢金次郎は清水屋という屋号で, 現在のフラ ンス山の下, 谷戸坂で大きく営業をしたと記録されています。「西洋洗濯どこからはやる はやる横浜谷戸の坂」などというはやり唄がうたわれるほどだった と言われています。これらの記録に基づき, フランス山の谷戸坂に面するこの地に「クリーニング業発祥の地」の碑が建立されました。
確認地:「クリーニング業発祥の地」の碑
住所:神奈川県横浜市中区山手町

URL:http://hamadayori.com/hass-col/commerce/cleaning.htm

 

この様に、横浜には沢山の初めての物があります。
私も、新しい物に興味があります。
これは、今も昔も変わらないと言う事ですね。
今回、紹介しただけでは無いみたいなので
また、次回にでも紹介していきたいです。

0 件のコメント: